平日のちょっと贅沢なライフスタイルマガジン Daily Premium Calendar

花火博士、線香花火の歴史についてとことん語る 玩具問屋 山縣商店 取締役会長 山縣常浩 × 煙火部部長 谷古宇正啓

日本の夏に欠かせない風物詩といえば花火。轟音と共に夜空に咲く打ち上げ花火から、夕涼みやキャンプなどで楽しむ玩具花火など、その種類は様々だ。近江商人の流れを汲み100年以上の歴史を持つ玩具問屋・山縣商店の山縣常浩さんと、打ち上げ花火を担当する谷古宇正啓さんに、日本の花火について話を聞いた。

山縣さんは、会社の代表取締役を務める傍ら、花火の歴史的な研究を進めている花火のエキスパート。特に線香花火への造形が深く、自ら国産の線香花火を復活させた情熱の持ち主でもある。

「日本の花火の歴史は、1543年の鉄砲伝来と同時にスタートしました。武士が鉄砲の弾に使われる火薬に火をつけて、パチパチ火花を散らして遊んだのが始まりと言われています。その姿を町人が見て、真似るようになったんですね。そのため、花火業を営む家系や土地のルーツを調べると、かつて弾薬を作っていた場所だったり、武将のお膝元だったり、火薬を扱っていた武家の流れを汲んでいることが多いんです。

江戸時代に入ると、皆さんご存知の『玉屋』と『鍵屋』が登場。江戸っ子たちの間で花火が大流行しました。パッと咲いてパッと散る花火は、江戸っ子の心をがっちり掴んだわけです。

まず頭角を現したのが『鍵屋』。鍵屋の弥兵衛は、幼少時から花火づくりが大得意。江戸にある根来鉄砲組屋敷で火薬や花火の研究を重ねていました。あるとき、隅田川に生えていた葦の管の中に微量の火薬を入れた花火作って売ったところ、これが大ヒット。一躍、江戸花火界の第一人者となり、脚光を浴びます。

この時の花火は、香炉や火鉢に挿して立てて火をつけて、上から燃えていく姿を楽しむものでした。その形が線香に似ているところから、『線香花火』と呼ばれるように。これが今に続く線香花火の元祖ですね。鍵屋の作ったこの花火は、別名『スボ(葦)手花火』ともいいます」(山縣さん)

国産花火は絶滅していた!?

大人気となった「スボ手」だが、材料となる葦が江戸には少なかったため次第に廃れ、人気は関西へと移っていく。その代わりに、和紙が豊富だった関東では新たに「長手」と呼ばれる種類が登場して、人々の人気をかっさらった。

「和紙で少量の火薬を包んでよっていき、下に垂らして燃やすのが『長手』です。特に関東の方には、『スボ手』よりもこちらの形の方がなじみのある方も多いでしょう。これは、鍵屋から暖簾分けを許された玉屋が開発したものではないかと私は考えています。

玉屋の初代は鍵屋7代目の番頭であった清吉。働き者だった彼は、鍵屋から独立するやいなや、並外れたセンスとアイデアでめきめきと頭角を現し、鍵屋をしのぐ人気を集めていきます。あっという間に一世を風靡した玉屋でしたが、将軍家慶が日光参拝のために江戸を立つ前日に火事を出してしまい、江戸から追放されるという悲しい結末が待っていました。玉屋の成功をねたんだ人物による放火説も出たほど、玉屋の人気は高かったようですね」(山縣さん)

以来、江戸時代から連綿と続いてきた線香花火づくりは、日本各地に波及。特に鉄砲や武士とゆかりの深い土地で発展していくこととなる。

「線香花火の三大生産地は、家康の生誕地である三河(愛知)、豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に弾薬作りを命じたと言われる豪族・筒井家のいた北九州(福岡)、そして武将・真田幸村の本拠地・信州(上田)です。親方が材料を配り、農閑期に農家のおばあさんたちが手作りで生産していました。

ところが、徐々に安価な中国産花火の台頭や花火禁止の条例化などの理由から、国産の線香花火は追い込まれていき、1998(平成10)年、ついに姿を消してしまいます」(山縣さん)

日本独自の線香花火が風前の灯に。その時、山縣さんが取った行動とは?

数々の文献に残された花火に関する記述から、独自の分析を行う山縣会長。まさに“花火博士”

数々の文献に残された花火に関する記述から、独自の分析を行う山縣会長。まさに“花火博士”

店内にはおもちゃ花火もずらり。ノスタルジックな雰囲気

店内にはおもちゃ花火もずらり。ノスタルジックな雰囲気

江戸時代にはこうして香炉の上に立てて、線香のようにして楽しんだという

江戸時代にはこうして香炉の上に立てて、線香のようにして楽しんだという

プロフィール

山縣商店

オフィシャルサイト:http://www.hanabiya.co.jp/

photo_naomi kinoshita
text_ miwako matsuzaki
edit_yu koyanagi